ここ数日の投稿で、
「自分の認識している世界は自我の投影である」
「自分が認識している他人は全て自分の中に存在している」
というお話をしました。
これらのことは天台宗の「十界互具」という考え方の中にもあります。
「十界」とは、
迷いの世界である「六道」、
すなわち「地獄道」「餓鬼道」「畜生道」「修羅道」「人間道」「天道」の6つの世界と、
悟りの世界である「四界」、
すなわち「声聞界」「縁覚界」「菩薩界」「仏界」の4つの世界を合わせた10の世界のことであり、
つまりは人間の意識の在り方のことです。
「十界互具」とは、「十界」の各段階の中にもそれぞれ「十界」が備わっているということ。
つまり、修羅や畜生のような生き方をしている存在の中にも菩薩や仏の意識があり、
菩薩や仏として生きている存在の中にも修羅や畜生があるということ。
どのような在り方をしていても、その中に十界の全てが存在しているということ。
だから、どんな悪党の中にも慈悲の心はあるし、どのような聖人の中にも悪党の意識はあるのです。
例えば、仏教の開祖である釈迦は常に相手に合わせて話の内容を変えていたそうです(これを「対機説法」と言います)。
「一般的な教え」という形ではなく、相手に合わせて
「この人にはこれ」「あの人にはあれ」という形で語り口を変えていたのは、相手によって必要な言葉が違うからです。
菩薩に対しては菩薩のための話があり、
畜生に対しては畜生のための話がある。
それが出来るのは、自分の中に「十界」の全てが存在しているからです。
もし、お釈迦様の中に「仏界」しか存在しなかったら、六道を生きる大多数の人間にはその言葉が届かなかったでしょう。
自分の中に無数の存在があればこそ、無数の存在を理解できるのです。
なので、「自分の中に何があるのか?」というのは問題ではありません。どれほど罪深い存在がいたっていいのです。
大切なことは「その中で自分は何を使うのか?」「どう使うのか?」ということ。それが自分の存在を作り、現実を創るのです。