猟奇殺人鬼を飼っていたっていい

昼間の投稿( http://wp.me/p3YIJz-nF )に対して、
 
「こいつ死ねって思ってる奴の行動を自分もやってた」ってこと気づいてショックを受けたってコメントがあったんですけど、 
 
そういうもんです^^;
 
 
っていうか、嫌っていたり、怒っていたり、憎んだりしている相手ってのは、ある意味でそれだけ自分に近い存在であると言えます。
 
それだけ強い感情を持っているってことは、それだけ強く相手の存在を感じることができる。つまり、自分の中にその要素があるということなのですから。
 
 
で、それは別にショックを受ける必要もなければ罪悪感を感じる必要もありません。
 
仮に相手と同じ行動をとっていたところで、それが自分の理性にとって望ましいのであれば問題はないのです。
 
 
そもそも人間は無数の存在を自分の中に飼っています。潜在的なものも含めれば無限と言っていいのかも知れません。
 
だからこそ他人を理解することができるのです。
 
 
なので、その中には素晴らしい存在もいれば、迷惑な存在もいていいのです。
 
要は自分がそれをどう表現するのか?ってだけの話で。
 
 
 
例えば、僕は一時期「羊たちの沈黙」などのサイコスリラーが大好きで、実録の猟奇殺人鬼のルポを読みふけていた時期があります。
 
っていうことは、僕の中に「猟奇殺人鬼」の人格が”なんとなく”存在しているということ。
 
でも、別にそれで問題ないのは、別に僕は猟奇殺人をしたいとは思わないし、その他の良心の呵責など諸々の要素があってそもそも出来ません。
  
ただ、映画や書籍などを読んで、”なんとなく”その心理を想像して
「怖いなぁ」
「興味深いなぁ」
「面白いなぁ」
 
と、エンターテイメントとして楽しむ程度のものです。
 
 
仮にこれが”なんとなく”を超えて、もっと臨場感が強く、自分の中の隠れた衝動として存在していたところで、実際にそれをやらなければやはり問題はないのです。
 
例えば、上に挙げたような映画やルポの作者は、普通の人よりもそういった衝動に近い存在と言えます(だから表現できるのです)。
 
しかし、それを現実の猟奇犯罪として表現するのではなく、エンターテイメントとして表現してくれる分には「問題ない」どころか「ありがたい」と言えます。 
 
 
だから、そういう意味でどんなに罪深く、悪どい自分も持っていて良いわけです。
 
 
要は「なんとかとハサミは使いよう」ってこと^^