人生の7割の苦悩を生み出す「無限の世界の呪縛」

今回は物質的にも精神的にも満たされた日々を送る上でとても重要はお話です。
 
これを腑に落としていただくことで人生における悩みの7割を手放すことができるでしょう。
 
 
人はなぜ、ネガティブな状態を維持してしまうのか?
人はなぜ、自発的に人生を”より嬉しく”することを諦めて、何かに依存してしまうのか?
人はなぜ、自分の人生の責任を他人に押し付けたくなるのか?
 
これらの原因は、僕らが生まれながらに持ち合わせている「無限の世界の呪縛」が働いていることにあります。
 
 
まず、僕たちは「有限の世界」の存在です。
 
人生は有限だし、
資源も有限だし、
欲しい物や他人の愛情を得るのも無条件ではなく、何かしらの条件を満たす必要があります。
 
限界と制限によって構築されているのが、僕らが生きている「有限の世界」です。
 
 
しかし、それと同時に、どうも僕らは生まれながらにして全てから自由な「無限の世界」を求めてしまう習性があります。
 
あらゆる制限から自由になり、
欲しいものが無条件に手に入り、
自分という存在が無条件に愛され、許され、認められること。
 
 
そういった「完全なる自由の世界(無限の世界)」のイメージが心の奥底に存在しており、そこに向かいたがるのが人間の性(さが)です。
 
「お金と時間から自由になって、いつでも好きなことができるようになりたーい♪」なんてのはまんま「無限の世界」のイメージです(笑)
 
 
それそのものは決して悪いものではありません。
むしろ、それがあるからこそ生物も文明も進化してきたのです。
 
より安定して生存したい。
より精神的に満たされたい。
より盤石な状態を築き上げたい。
 
 
また、それがあるからこそ、生きる喜びも存在します。
 
人から愛されること。
人に助けてもらうこと。
人から価値を受け取ること。
 
「無限の世界」の感覚は、
「この世界には崇高で価値がある何かが存在する」という希望を生み出します。
 
 
もし、これがなければ「この世界は生きるに値する」という感覚を持つのは難しいでしょう。しかし、それと同時に自分の人生を束縛する要因になってしまうこともあります。
 
それが「無限の世界の呪縛」という現象です。 

 
 
この「無限の世界」の感覚がどこから来るのでしょうか? 
 
ひとつの考え方として、赤ん坊の頃の親との関係が原因である、というものがあります。
 
赤ん坊の頃はひとりで生きることはできません。必ず親(もしくはそれに変わる庇護者)が必要となります。
 
逆に言えば、自分では何もする必要がなく、泣けば全てを世話してもらえる。何かになる必要もなく、ただ自分であるだけで愛してもらえる。
 
まさに「無限の世界」です。
 
 
しかし、不遇な子ども時代を過ごした人たちもいます。
生きていくための必要最低限の世話はしてもらっているけれど、十分な愛を受けられなかった人。
 
そういった人にも「無限の世界」の感覚はあるし、
むしろ、そういった人ほど「無限の世界」的なものを渇望する傾向にあります。

 
例えば、
人から必要以上に愛されたがり、
他人に犠牲を強いたり、
何かに依存を求めたりする。
 
 
ですので、「親子の関係から来る」のではなく、それ以前に生まれながらにして本能的に持っており、幼少期に満たされなかった人ほど大人になってからもその欲求に縛られるもの、と考えるのが自然でしょう。
 
 
そして、そういった欲求の奥にあるものは「救済されたい」という願望です。
 
自分の力で立ち上がるのではなく、
他人(もしくは超越的な存在)に救ってもらいたい。それによって(不遇な)人生の帳尻を合わせたい。
 
 
その感覚が強ければ強いほど、人は「自分で人生をより良くしていこう」という気持ちを持てなくなります。
 
なぜか?自力で立ち上がってしまえば救ってもらう必要がなくなる。つまり「救済」を受けられなくなってしまうからです。
 
 
人がネガティブな状態を維持したり、他人に責任を押し付けてしまう原因もまさにここにあります。
 
 
結果として「人生を前向きに自分で切り開いていく」という意欲が削がれ、自信を持つことを恐れ、スピリチュアルに傾倒したり他人に依存したりしてしまう。

これが「無限の世界の呪縛」です。

 
 
そして、これが厄介なのは、仮に「救済」が為されたとしても満たされないことです。
 
例えば「無条件に愛されたい」という欲求を持っていたとして、実際に自分のことを無条件に愛してくれる人が現れたら、しばらくは嬉しいし、満たされた感覚があるでしょう。
  
やがては、その「無条件に愛してくれる相手」に対して不満を持つようになるでしょう。「どうしてあなたは私をもっと満たしてくれないの?」と。
 
仮に、その相手が要求を満たし続けてくれたとしたら、今度は「ここまで私に尽くし続けるこの人は大したことない存在なんじゃないか」と感じるようになり、価値を見出せなくなります。

つまり、際限がないのです。

そして、程度の差はあれど、この感覚は誰しもが持っています。
 
充実して満たされた日々を送っている分には感じることは少ないでしょう。しかし、例えばショッキングなことがあって生きる気力を失ってしまったら?
 
途端にこの「無限の世界の呪縛」が顔を覗かせます。
「こんなに酷い仕打ちを受けたのだから、誰かに帳尻を合わせて欲しい」
 
 
特に鬱(うつ)状態になると、この感覚に支配されます。
本人の感覚としては「自分ではどうしようもない」なのですが、その前提として「無限の世界」への渇望があるため「自分では立ち上がりたくない」のです。
 
 
もちろん、そんな状態で「あなたが求めているものなんて存在しないのだから、自分で立ち上がりなさい」なんて言われたって無理でしょう。むしろ無理に立ち上がろうとすればするほど状態は悪化してしまいます。
 
 
根源にその欲求がある限り、それに無理に蓋をしたって辛くなるだけです。
 
 
では、僕たちは死ぬまで「無限の世界の呪縛」に支配されて生きるしかないのか?
 
そんなことはありません。
 
 
「無限の世界への欲求」の行き着く先を知れば、そこから自由になれるのです。
 
そう。大切なことは「無限の世界への欲求」に蓋をすることではなく、その正体を正しく認識することにあるのです。
 
 
では、「無限の世界への欲求」の行き着く先とは何なのか?
それこそが「絶望」です。
 
 
想像してみてください。自分が「完全なる自由」を手にしてしまった状態を。
 
完全に無条件で認められ、何もしなくても愛され、欲しいものが全て手に入ってしまう。
 
 
一見すれば「完全なる幸せ」がそこにあるように感じられるかも知れません。
 
 
しかし、それというのは一切の必然性が失われた世界です。
 
何もする必要がない。
それはつまり、何もやることがないってことです。
 
戯れに何かを始めたところで、本来やる必要がない(必然性がない)のですから、戯れ以上の「価値ある何か」にはなり得ません。
 
 
そして、無条件に認められるということは、自分でなくても良いということです。
 
想像してみてください。
あなたのパートナーから
「僕の相手は別にあなたでなくても、誰でも良いんだよね(あなたの代わりはいくらでもいるんだよ)」と言われたら?
 
とても寂しい気持ちになりませんか? 

 
そして、全てがOKになるということは、最終的には幸せである必要もなくなるということです。
 
幸せでなくてもOK。
そうなった時点で「幸せ」にも価値がなくなります。
 
 
なので、本当に「無限の世界」が実現してしまえば、そこには虚無と絶望しかないのです。
 
 
「無限の世界の呪縛」から自由になるには、「無限の世界への欲求」そのものが虚しいものであることを認識すること。そして、その認識を持って自分の中にある「無限の世界への欲求」を観察することです。
 
 
自分の中で
「あいつが悪い。だから自分は何もする必要がない」
「救われたい。誰かに無条件に自分を愛して欲しい」
「何もしたくない。ただただ自由になりたい」
 
というような「無限の世界への欲求」が生まれたら、その都度「この欲求の行き着く先は絶望しかない」という認識を持って観察します。
 
すると、自然と手放すことができます。
 
そして、「無限の世界の呪縛」から自由になればなるほど、人生を自分で切り開くための力が宿ります。 
 
 
 
「生きる喜び」は制限の中にしか存在しません。
それを手にいれることが困難だからこそ、手にいれる価値があるのです。
 
 
例えば「お金を稼ぐこと」は「お金を稼ぐ必要性」という制限があるから嬉しいと言えます。
 
これが「経済的自由」を手にいれた後であればどうでしょう?
 
確かに自由ですが「お金を稼ぐことの喜び」は得られなくなります。そうなったとき「生きる喜び」を得るためには、その自由な状態から「自分にとって必然性のある制限」を作り出す必要が出てきます。
 
もし、それを作り出すことができなければ、安定はしていても虚しいだけの余生を送ることになるでしょう。
 
つまり、多くの人が求める「経済的自由」も、
「自分にとって嬉しい制限」を自由に選べるから嬉しいのであって、「完全なる自由そのもの」が嬉しいわけではないのです。
 
 
言い換えれば「生きる喜び」とは、
・何かしらの制限があり、それから自由になること
・今ある自由の範囲内で可能な「より嬉しい制限」を選択すること 
 
この2つを行き来することにあります。
 
 
「より嬉しい制限」を選択するというのは、自発的に何かをやるということ。
自分の力で、自分の責任で道を切り開くということです。
 
それは「他人に頼ってはいけない」ということではありません。
他人に頼るためには、まずは自分からその人に働きかける必要があるし、その結果は自分の責任であるという話です。
 

「無限の世界の欲求の行き着く先は絶望だと知ること」 
「有限の世界の制限こそが喜びを生み出すと知ること」
「全てを自分の責任として乗り越えていくこと」
 
それを受け入れた時、
「無限の世界の呪縛」から解き放たれ、「有限の世界の制限」そのものが「喜びの可能性」となります。
 
不自由を嘆くのではなく、
不自由を愉しむこと。
 
それが「有限の世界の自由」なのです。