全ては”他の何か”を存在させるためにある

全ての存在の意味や価値は
「相対的」で「刹那的」で「流動的」なものであり、
 
それそのものに固有の何かがあるわけじゃありません。
 
 
じゃあ、「本当は全てに意味も価値もないのか?」と言えばそんなことはなく、
 
「相対的」で「刹那的」で「流動的」に、いわば「後付け」的に意味も価値も勝手に生まれてしまうわけです。
 
 
「全ては方便である」というようにも表現できます。
 
「方便」とは「嘘も方便」の「方便」です。
 
本来の意味合いは
「仏教で人を悟りに導くための”仮の手段”」です。
 
“悟り”とは、その本質は言葉で伝えきれるものではありません。だからこそ”仮の手段”が必要となるのです。
 
つまり、方便として語られること自体に意味はなく、それが指し示す先に意味があるわけです。
 
 
例えば、僕らが五感を通して認識する物理空間にも、それそのものに意味も価値もありません。
 
物理空間で起こっていることは、時間の経過と共に物体が移動し、変質しているだけです。しかし、その中に僕らにとって意味や価値がある”精神生活”が生まれます。
 
つまり、物理空間とは”精神生活”を生み出すための「方便」であると言えます。
 
 
そして、”精神生活”そのものにも固有の意味はありません。
 
人生の中で何を経験し、何を生み出しても、いずれにしてもやがては死に、無に還ります。
 
しかし、そうやって経験し、生み出したものが他の誰か(何か)にとっての「意味」や「価値」になります。
 
 
僕らの目の前にある世界は、そんなふうにして、宇宙が生まれ、生命現象が生まれ、人類が生まれ、文化が生まれ…という一連の流れの中で生まれては消えていった無数の「方便」が結実したものです。
 
自分自身の存在も、自分をとりまく存在も、全てが他の何かによって生み出されているもの。
 
 
そして、あなた自身も”他の何か”を未来に向けて存在させ続けているのです。
 
あなたが自分自身に意味や価値を見出していようがいまいが、
他の誰かがあなたに意味や価値を見出していようがいまいが、
 
あなたの存在には意味も価値も存在する(勝手に生まれてしまう)のです^^

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