「価値」からの自由と「価値」への自由

「自分には価値があるのだろうか?」
「私は愛される価値のない人間だ」
「価値ある人間になりたい」
 
多くの人が「価値」ということについて考え、悩み、それを手に入れようと様々な努力をします。しかし、多くの場合、それは塩水を飲むようなもので、求めるほどに心は乾いていきます。
 
なぜなら、このようなぼんやりとした文脈での「存在の価値」というのは、価値の本質からズレているからです。
 
 
おそらく、多くの人が無意識的に求めている「存在の価値」とは、
 
絶対的で、
普遍的で、
固定的なものです。
 
誰に対しても、常に、変わることのない「価値」を持っていたい。
 
もし、あなたが10人に好かれていたとしても、1人に嫌われたら傷ついてしまうのであれば、そういった「絶対的な存在価値」を求めているということです。
  
 
しかし、もちろんそれは無理でしょう。
 
「価値」の本質は、
 
相対的で、
刹那的で、
流動的なものだからです。
 
 
Aさんにとっては価値があっても、Bさんにとっては価値がない。
この期間は価値が発揮されたけど、用が済んだら無価値になった。 
「価値あるもの」として扱われていたけれど、時代の変化で無価値になった。
 
世の中に存在する全ての「価値」とはそういうものです。
 
 
価値あるものを生み出し、自分に価値を宿せる人は、そういうことはわかっています。
 
「絶対的な価値」が存在しないことを知っているから、相対的で刹那的で流動的なものだとわかりつつも、堂々と「価値」を生み出せるのです。
 
「絶対的な価値」を求めるほどに、価値を提示することは難しくなります。基準がこの世に存在しない「絶対的な価値」なのですから、何を生み出そうがそこに自信は生まれません。それを提示することに罪悪感が生まれてしまうのです。
 
 
なぜ、僕らは存在しないはずの「絶対的な価値」を求めてしまうのか?それは、僕らの心の中に「絶対的な価値」の感覚が存在しているからです。
 
そして、本来僕らは「価値」という概念を遥かに超えた存在と言えます。一人一人が「価値」という物差しで測れないぐらいの崇高な存在なのです。
 
 
だからこそ、自分を「価値」に置き換えるのであれば、「絶対」を求めてしまうということです。
 
 
しかし、それは本来、自分の内面で完結させれば良いだけの話なのです。
 
自分は、「価値」という概念を遥かに超えた崇高な存在である。それを無条件に受け入れ、そして堂々と相対的で、刹那的で、流動的な価値を生み出せば良いのです。
 
 
なぜ、それができないのか?
 
「○○でなければ価値がない」という考え方を後天的に受け入れてしまっているからです。本来そのままで完全であるはずなのに、それに条件をつけることで「価値を遥かに超えた崇高な存在」の幻影としての「絶対的な価値」を外側の世界に求めてしまうわけです。
 
 
僕たちを管理し、操作したがっている人たちがいます。
 
彼らにとっては「○○でなければ価値がない」という考え方を受け入れさせた方が操作する上で都合が良いのです。
 
「あなたにはそのままでは価値がありません」
「私が提示する△△をやった人間のみに価値があります」
「だから、それをやりなさい」
 
 
そういった考え方が蔓延し、親が子に、教師が生徒に、上司が部下に教え広めているのが今の社会です。
 
 
僕らに必要なことは、自分自身が「価値を超えた存在であること」を認めること。その上で、自分の愛(もしくは戦略)に基づいてこの世的な価値を生み出すことです。
 
 
 
「あなたは『価値』なんていう物差しで測れない崇高な存在なんだよ」
 
なんて言われてもピンと来ないのであれば、試しに「自分の存在に『価値』を宿すために努力をすること」を考えてみてください。
 
「価値」とは相対的なものですので、他人にとって「価値ある存在」になるための努力です。
 
 
…うんざりするような、自分の尊厳が汚されるような苦しい感覚になりませんか?
 
 
それが答えです^^
 

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