真の勇気とは何か?

こんにちは、「超次元コーチ」サトルンです^^
 
 
今回、僕がお伝えしたいのは
「勇気とは、他人から認められるためではなく、自分自身のためのものである」ということです。
 
 
人生の羅針盤理論を一言で表すなら
「自分が恐怖(ドキドキやワクワク、あるいはゾワゾワ)を感じる方向に向かいましょう」ということになります。
 
ここで大切なのは、
「自分が」「感じる」です。つまり「他人が」「考える」ではないということ。
 
これを間違えると”心からの喜び”には到達できません。
 
 
「他人が考える恐怖」に向かうのは「他人に認められること」が目的であるということです。つまり「根性試し」みたいな世界です。それはつまり「自分が感じる恐怖」に蓋(フタ)をする行為であると言えます。
 
 
最近、とある知り合いの投稿でこういったものを見かけました。
 
「前の晩の飲み会でしこたま飲んで記憶を失い、目が覚めてみれば両肩が痣(あざ)だらけになっていた。そういえば、誰かが言い出して肩パン(肩にパンチをすること)大会やったんだっけ」
  
 
肩パン大会。
おそらく、ジャンケンに勝った人が負けた人に肩パンをやる、というようなものでしょう。
 
 
楽しそうなことをやっているな、と思いました(笑)
 
でも、それを読んで若干ゾワっとしたものを感じたので、自分自身に問いかけてみました。
「自分がその場にいたとして、それをやりたいと感じるだろうか?」 
 
答えは「No」
 
 
その知り合いがどうこうという話ではありません。
飲みの席で悪ふざけでやっていることですので、それが良いとか悪いとか、そういうことではないのです。
 
 
ただ、ノリでみんなが楽しむためにやっていることでも、自分はやりたくないな、って思いました。遊びであっても、僕は肩パンをされたくないし、したくもないのです。
 
 
今度は自分自身のハートに問いかけました。
「その状況になったとして、肩パン大会に参加することと、それを断ることのどちらが自分にとって怖いだろうか?」
 
自分が恐怖を感じたことは
「断ること」です。
 
 
もし、その場にいたとして、それを断った場合、様々なことを言われたかも知れません。
 
「サトルン、ノリがわりぃなー」
「チキンかよ」
「男だったらやろうぜ!」
 
おそらく、尊敬は得られないでしょう。ある種の信頼を失ったかも知れません。その場にいる誰もが、僕の決断を臆病と捉えるでしょう。
 
しかし、やりたくないものはやりたくないのです。
 
 
その場での楽な選択肢は、
「嫌な気持ちを我慢して(蓋をして)肩パン大会に参加する」です。
 
別に、肩が痣(あざ)だらけになることなんて大したことじゃありません。もっとも恐怖を感じるのは他人からの尊敬を失うことなのです。
 
 
だからこそ、僕は断るでしょう。
自分の勇気が指し示す方向がそれだからです。 
 
 
勘違いしないで欲しいのは、
「肩パン大会に参加すること」そのものが臆病ではない、ということです(重ねて言いますが、その知り合いがどうこう、という話ではないのです)。
 
 
その時々のシチュエーションで何を選択するのか?勇気が指し示す方向は人によって違います。
 
 
人によっては「肩パン大会に参加すること」の方に恐怖を感じるかも知れません。であれば、それをやることで自分自身に誇りを持てるでしょう。
 
しかし、それは本人にしか分からないことです。
 
 
「勇気という名の臆病」と
「やりたくないことをやらない勇気」を混同してはいけません。
 
臆病とは、他人が作り出したルールに従って自我を守ることであり、
勇気とは、自我にとってのリスクを背負うことなのです。
 
 
参照
もう迷わない!人生の羅針盤
http://wp.me/p3YIJz-g3

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