”やりたいこと”をやって生きているとなぜ怒られるのか?

こんにちは、「超次元コーチ」サトルンです^^
 
 
僕がお勧めするのはハートの衝動に従い、ハートの喜びに向かってやりたいことをやる人生です。
 
しかし、それをやると多くの場合、誰かから怒られます。
 
怒られないこともあるかも知れませんが、怒られる前提でやった方が良いです。それで誰かから怒られた時にいちいち萎縮しているようでは、いつまで経っても”ハートの喜び”にはたどり着けないからです。
 
(ちなみに、この”ハートの衝動に従う”というのは「やりたいことをやる」だけではなく「やりたくないことをやめる」というのも含まれます)
 
 
では、どうしてやりたいことをやると、つまり”ハートの衝動”に従って生きると怒られるのでしょうか?
 
それは、そうすることが彼らに対して恐怖を与えるからです。
 
 
やりたいことをやって生きることを咎(とが)めるのは、やりたいことをやらず、やりたくないことをやっている人たちです。
 
「努力」「根性」「勤勉」
そういった美徳めいたものを盲信して、誰かが決めた常識の中で生きているのです。
 
それはつまり、「恐怖基準」で生きているということ。
自分の中に恐怖があり、それから逃れるために、蓋(フタ)をするために生きているわけです。
 
 
お金がなくなるのが怖い。だからお金を稼ぐ。
愛されないのが怖い。だから愛してくれる人を探す。
必要とされなくなるのが怖い。だから有能であろうとする。
 
 
そういった人たちにとって、ハートの衝動に従い、恐怖から自由に生きている存在は恐怖の対象となります。
 
人は、他人の存在に自分自身を投影します。
 
悲しんでいる人を見れば悲しくなるし、
苦しんでいる人を見れば苦しくなります。
 
 
そして、自分が恐れていることをやる人間に対しては、
自分がそれをやるのと同じような恐れを感じます。
 
 
だから、我慢できないのです。
「お願いだからやめて」と、お説教をしてくるわけです。
 
「あなたのためを思って言ってるのよ」
これは正しくは、相手に自分の恐怖を投影してザワザワしている自分自身のために言っているわけです。
 
 
さらに言えば、自分が恐れていることを平気でやる人間というのは、彼らの信じていることを脅かす存在であると言えます。
 
恐怖から逃れるために苦痛に耐えている。
 
「努力」「根性」「勤勉」
そんな言葉で自分の在り方を肯定しているところで、そこから自由に生きている人間と出会ってしまったら?そっちの方が正しかったとしたら?
 
自分の存在がバカみたいなものになってしまうわけです。
 
 
だからこそ、彼らは”やりたいことをやって好きに生きている人間”を全力で否定するということです。
 
「そんなことやってて失敗したらどうするんだ?」
「そんなことをやっても無意味だ」
「もっとちゃんと生きろ」
 
自分が信じ込んでいる世界へと引きずり降ろそうとします。そうしなければ、自分自身の在り方を肯定できないから。
 
 
“ハートの衝動”に従い、やりたいことをやっている人間はそんなことはしません。「お説教」というのは恐怖基準で生きている人がやるものです。
 
”ハートの衝動”に従って生きるということは当然自己責任であることが大前提となります。それはつまり、他人の自己責任も認めるということ。
  
だからこそ、”ハートの衝動”で生きている人は他人をジャッジしません。
  
 
 
つまり、あなたが何か行動をした時に怒る人やお説教をしてくる人がいたとして、それは聞く必要がないのです。それは自身が抱えている恐怖を押し付けて来ているだけなのですから。
 
 
それが、どれだけ実績があるお偉いメンター様でも同じことです。その話を受け入れることは、決してあなたを”ハートの喜び”には近づけないでしょう。
 
 
「他人の在り方に対していちいちお節介を焼いてくるやつなんか放っておきゃいいんだよ」というお話でした^^
 
 
参照
参照もう迷わない!人生の羅針盤
http://wp.me/p3YIJz-g3
 

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