人生がつまらないなら面白がれば良いじゃない

最近、つくづく思うのは
「世の中面白がったもん勝ち」
 
ってこと。
 
 
っていうのは、
本来は
「全てのものに意味も価値も無い」から。
 
 
いや、「無い」っていうと語弊があって、
正しく表現すれば

「意味も価値も幻である」
 
ってこと。
 
 
「全ての存在は縁(関係)によって起っている」
っていうのがお釈迦様が語った「縁起」の思想なんだけど、
 
まさにその通りのお話で、
 
 
単独で、「ただそれだけ」で意味や価値があるものって存在しないわけです。
 
 
例えばお金なんかそうで、人類が存在しなければ単なる紙切れです。我々人間が紙切れに「お金」という機能を与えているから、「お金」が存在し、そこに価値が生まれているということ。
 
 
1人の人間も同様で、他の人間(動植物でも良いんだけど)がいるからこそ、そこに意味や価値が生まれるわけです。
 
 
つまり、単独では意味も価値もない存在同士が繋がることで、その関係の中に意味や価値が生まれるってこと。言ってみれば、全ての意味や価値はバーチャル(仮想的)なものであると言えます。
 
で、あくまでも仮想的なものなので、そこに関係のない人にとっては意味がなく、あくまでも当事者間だけの価値であるってことです。
 
 
例えば、僕と彼女ちゃんの日常的なやりとりなんかがそうで、基本的には他の人にとって意味や価値があるものではなく、あくまでも僕と彼女ちゃんだけが嬉しいものに過ぎません。
 
だから、「幻」だってこと。
 
 
んで、超絶不謹慎なことを言ってしまうと、あなたが意味や価値を感じているものの全ては、地球が消滅してしまえば「なかったこと」になります。
 
だって、価値を見出す存在がいなくなるわけですから。
観察する存在がなければ「消えた」ですらなく「最初からなかった」と変わらないわけです。
 
 
(んで、別に地球を消滅させなくても、自分が死ねば全ての意味や価値はなくなります。自分にとっては)
 
 
絶対的に存在しているものはなく、全ては関係性の中に生まれる「泡のように儚いもの」であると言えます。
 
 
んで、これが腑に落ちてしまうと、今度は虚無主義的な考え方になってしまう危険性が出てきます。
 

全てのものに絶対的な意味も価値もない。
全てはバーチャルで、価値(関係性)を存在させているものにも絶対的な価値は存在しない。
 
「自分を愛しましょう」って言ったところで、自分にも絶対的な意味や価値があるわけでもなく、無理にそれをでっち上げたところでやっぱり虚しい。
 
 
結果として、
「何をやっても虚しい」になっちゃう。
 
 
そんな「悟りの世界」的なことを意識したことがない人でも、
 
「今までやってきたことになんか意味はあったんだろうか?」
「自分の存在には価値があるんだろうか?」
「生きる意味ってなんなんだろう?」
 
そんな風に考えることもあるかも知れませんが、
 
はい。ぶっちゃけそんなもんはありません(笑)
(縁起として仮想的には存在しています)
 
 
 
でも、それで全然オッケーってこと。
 
 
例えばテレビゲームなんかは「楽しい」以外の意味や価値なんてのは基本的にはないわけですが、それでも子どもなんかは夢中になってやります。
 
「それやって何か意味があるの?」
 
って聞いたところで、
「いや、楽しいからやってるだけだよ?」
 
以外の答えなんかないわけです。
 
 
 
つまり、意味や価値はなくても楽しければ良いということです。
 
 
ただ、それだけだと
「じゃあ、現実を楽しもうって思ったところで、結局は意味や価値がないんだったら虚しいだけじゃん」になるんだけど、
 
そこで大切になってくるのが
「積極的に面白がる姿勢」であると言えます。
 
 
 
結局、本質的には全てのものに意味も価値もなく、「ただそれだけで面白いもの」なんてのは存在せず、
 
自分がそこに「意味」を見出すから「意味」が生まれるし、
自分がそこに「価値」を見出すから「価値」が生まれるし、
自分がそこに「面白さ」を見出すから「面白さ」が生まれるってこと。
 
 
 
「おもしろき こともなき世を おもしろく すみなしものは 心なりけり」
とは高杉晋作の言葉ですが、
 
「人生がつまらなかったら面白くすれば良いじゃん」以前に、まずは「積極的に面白がる」ところから始めりゃ良いんじゃないでしょうか?
 
 
「面白い人生」を作るのは「面白がる姿勢」ってことです^^

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